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富田仁先生は生涯で五十冊を優に越える著作を世に問はれた。五十冊目刊行記念パーティーに伺つたのはもう十年以上前になると思ふ。「ぼくはね、持ち込み原稿つてないんですよ。みんな註文。編集者のひとが書け、書けつて言つてくれる」。
1933年3月1日のお生まれだから、2003年3月に定年退職された。長年、日本仏学史学会の会長を務められ、私がその学会の常任幹事だつたのも、また、1986年以来、在外研究などで中絶はあつたものの、いまなほひとつだけのこして務めてゐる日本大学法学部の非常勤講師の仕事も、みな富田仁先生のご推輓だつた。 富田仁先生は後輩や若い研究者を積極的に登用して、論文集や大きな辞典を何冊も編纂なさつたが、私もいくつかかかはらせて頂いた。 ・「欧米文学交流の諸様相」三修社 1983 ・「フランス文学にあらわれた自然のイメージ」駿河台出版社 1988 ・「海を越えた日本人名事典」日外アソシエーツ(増補改訂も出た)1985(2005) ・「360日話題事典」日外アソシエーツ 1998 ・「日本の創造力」NHK出版 1993 最初の二つに書かせて頂いたことで、私のプルーストの方向が定まつたと云へる。その後「乳いろの花の庭から」所収。 「海を越えた日本人名事典」のとき、各執筆者が書く項目はすべて(強調したい)富田仁先生が選ばれた。富田先生が私に割り振つてくださつた項目のなかに、宮城浩蔵と乙骨亘があつた。これは偶然としか云ひやうがないのだが、宮城浩蔵は明治の創立者のひとり。「明治の三尊」と讃へられる。私が明治大学に移つたのは2000年4月である。その十五年前に、宮城浩蔵について書いたといふのは私個人にとつて何とも不思議な巡りあはせといふほかない。乙骨亘については、実は誰だか最初はまつたく分らなかつた。むろん私が無知なせゐもある。仏学史学会は当時、毎月例会があつたから、富田先生に「これはどういふひとなのでせう。まつたくわかりません」と申し上げると、先生はにつこりしながら「いや、わかると思ひますけどね」と仰言つた。それでさらに調べたら、何と私が好きだと申し上げたことのある上田敏の実父だつたことがわかつた。無知な輩(もちろん私のことである)は救ひがたいと、そのときはわが身の情けなさを嘆いたものである。谷中霊園まで行つて、調査もしたことを思ひ出す。「日本の創造力」は何十冊もあるシリーズで、私はそのなかで三冊に書いてゐる。先日勝沼に学生をつれて行つたが、そもそも高野正誠を知つたのは、そこで高野正誠について富田仁先生が書くやうに仰言つてくださつたからである。三井の大番頭、益田孝について知つたのも、その企画のおかげだつた。あとひとりは後楽園球場を造つた田辺七六。宝塚を作つた小林一三の弟である。 富田先生は何度か私に共著の仕事を薦めてくださつた。私の、本当に厭になるくらゐのぐうたらな性格のせゐで、実現しないうちに、先生がつひに鬼籍に入られてしまつた。伏して先生にお詫び申し上げるほかない。たとへば、富田仁・高遠弘美著「フランス小説案内」。私は今後、この幻に終はつた書物のことを終生悔やむだらう。 1990年代、私はフランス語教科書を作つてゐたが、そのきつかけも富田先生であつた。思ひかへせば、頂いたご厚恩は数知れない。 東京ではもちろん、パリでもご一緒したことがあるし、また、先生は山梨に私が通つてゐるときに、不意に甲府湯村温泉まで奥様といらしたことがあつた。研究室に突然お電話を頂き、すぐにホテルに駆けつけて、愉しい夕食をともに頂いた。ここは私のいはば地元ですから、とどんなに申し上げても先生は私に支払ひを任せてはくださらず、ここでもご馳走して下さつた。山梨に専任が決まつたとき、必要になるからと仰言つて、有名百貨店のワイシャツ仕立券をお贈りくださつたこともある。 何から何まで、富田先生にはお世話になった。最初にフランスに行つた四半世紀以上前、私が持つてゐなかつた旅行道具をいくつかお借りしたこともあつた。 まさに、寛仁大度のお方であられた。一昨年のお正月にご挨拶に伺つたのが最後であつた。先生のご病気をはばかつてのことだつたが、先生のご晩年、もつと頻繁にお訪ねすべきであつた。いつもかうして悔やむばかりである。 改めて、そして、謹んで富田仁先生のご冥福をお祈りいたします。 追記 またひとつ思ひ出した。種村季弘先生とお話をしてゐるときである。「富田仁つてゐるでせう。フランスと日本の交渉史なんか書いてる。面白いね。あの人の本」と不意に先生が仰言つたことがある。存じ上げてゐる方なんですよ、と申し上げたら、種村先生は少し驚かれたふうだつた。
by romitak
| 2009-03-14 08:36
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