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吉田秀和が亡くなりました。享年九十八。かういふお年であれば命脈のつきるのも不思議なことではありません。
それでもなほ、私の胸は悲しみにおおはれてゐます。 けふはいささか昔語りになります。 吉田秀和が朝日で音楽時評を始めたのがたしか1971年。私が大学二年の時だつたと思ひます。ほぼ同じ時期にラジオで音楽番組も始まりました。 吉田秀和が解説を加へながらさまざまな音楽を紹介する番組です。 あの当時の朝日はすごくて、文藝時評が石川淳から吉田健一、そして丸谷才一、ときはめて記憶に残る連載のほか、融通無碍な吉田秀和の連載があつたのですから、それだけで私は朝日をとつてゐたやうなものです。今は吉田秀和の不定期の連載をのぞけば見る影もなくなつてしまひましたが(折角単行本中心の文藝時評にした石川淳、吉田健一らの功績をどうして最近の文藝時評は無視するのか、けふの本題とは関係ありませんが、私には納得がいきません)。 あるとき、ラジオで吉田秀和が少年の頃のフランス語の家庭教師だつた中原中也のことを語つて、紀友則の「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」に中也が附けたメロディを番組中で歌つたことがありました。もちろん低唱です。されど、そのメロディはすべてとは云ひませんがいまだに脳裡に残つてゐます。 音楽について吉田秀和から私はどれだけの富をもらつたことでせう。それは私一人ではなくて、あまたの方々がさうだつたと思ひます。 吉田秀和といふ文筆家は音楽をかしこまつた毛皮のコートのやうに着るのではなくて、もつと肌にそふ自然なものとして聴くすべをおしへてくれた人でした。たとへばあるときの音楽時評。アルヴォ・ペルトについて書かれた「檄」のやうでゐてどこまでもしづかな文章に心おどり、ペルトを買ひに走つた方は少なくないのではないでせうか。 音楽から受けた印象を言葉で的確無比に云ひあらはす。それは与謝野晶子が「食べ物の味を言葉で書くのはむつかしい」と言つた以上に困難で意味のある仕事でした。それを吉田は、これがもつとも大事なことの一つだと思ひますが、格闘のあとをほとんど見せずにじつに優雅に成し遂げたのです。 ドイツ歌曲のすばらしさを教へてくれた晩年の「永遠の故郷」の連作もすばらしくて、ドイツ語をもつと勉強しておかなかつたことをとことん後悔するほどでした。 それに、何番目かのプルースト個人全訳を目指してゐるものとして、第一巻の解説に引いた吉田の、これ以上ないほどみごとなプルースト評。私は吉田秀和の言葉にどれだけ励まされ、この困難な訳業を続ける勇気をもらつたことでせうか。 明治大学の同僚の福田逸先生が作られたご尊父の『福田恆存対談・座談集』にも何編か吉田秀和の対談が載つてゐます。小林秀雄、大岡昇平、吉川逸治などと語り会ふ吉田はまことになつかしい知識人の姿をそこで示してゐます。いづれもすばらしい対談です。されど、吉田がゐなくなつたいま、思ふところをあへて云ふなら、吉田の真骨頂は成熟しきつた批評家がどのやうに対象と向かひあふかを実践してみせたところにありました。 白水社から出てゐる二十四巻の全集とその後に刊行されたすべての著書をこの先も私は読み返すことでせう。 一人の文学者がゐなくなることがどれだけ悲しいか、私の個人的な思ひで申し上げれば、中村真一郎(1997)、種村季弘(2004)、倉橋由美子(2005)に続く悲しみの淵にたつてゐるとあへて申し上げます。この先、どんな演奏があつても、吉田秀和の的確無比な評を読むことができないのは何としても寂しい。その寂しさにたへて生きてゆかなければならない。さう云ひ聴かせてゐるところです。 以上、私の独りよがりの追悼の献花のこころです。いつものことながらお許し下さい。
加藤民男先生のご逝去を知らせてくれた後輩は、学生の面倒見のよいすぐれた仏語教師であるとともに、仕事も翻訳もいい仕事を積み重ねてゐる俊英である。
その彼から重ねてメールが届いた。そこには加藤先生の最後の様子も書かれてゐた。それをここに記すことはできないが、ただ、先生があらゆる延命治療を拒み、ご自分が亡くなつたあと、それを知らせるな、偲ぶ会のやうなものも開くなとご家族に厳命してをられたといふことだけは書きつけておきたい。そこまでご自身に厳しい先生はしかし、学生に対してはどこまでも真摯に向き合ふ教育者だつた。後輩が書いてきた言葉に私は深い感銘を覚えたので、彼の迷惑にならない程度に絞つて紹介したい。 あるとき、その後輩は先生に、やる気のない学生をどう指導したらいいでせうかと伺つたことがあつた。 加藤民男先生のお答へはかうだつたといふ。 「学生を諦めてはだめだよ。しつかり向き合はないと」。 還暦を過ぎるまで教師をしてきた私をこのお言葉は厳しく打つ。師はいつまでも師であられる。それを実感するばかりである。
また私の点鬼簿に恩師のお名前を記さなければならない。後輩からメールが来て、四月四日に加藤民男先生が亡くなつたことをけふになつて知つた。加藤先生は一九七〇年、早稲田の一文に入つた私たちに最初にフランス語文法を教へてくださつた先生である。その教科書は平岡篤頼、加藤民男、井上登の三人の先生方が共著で著されたもので、加藤先生は後期途中で接続法大過去まで終へ、あまつた時間でボードレール「パリの憂鬱」からいくつか選んだものをプリントで配つてくださつた。私がいまなほ「異邦人」はむろん、「酔ひたまへ」その他幾篇かを暗誦できるのはこのときに覚えたからである。
二年になつて教養演習でもスタンダールについて詳しく教へて頂いた。三年になつて仏文に進んでからはスタンダール講読の授業を当然のやうに選択したのだが、そのときのテキストが「パルムの僧院」(もちろん原文)で、ファルネーゼ塔に幽閉されたファブリスが牢獄の窓から外に広がる自然と悠然と大空を飛ぶ鷹(鷲かもしれない)を見て陶然とする場面をフランス語で読んだときの精神的高揚感はいまもつて忘れることはできない。その後も加藤先生の研究室にはしばしばお邪魔をしてさまざまなお話をして頂いた。 修士課程に進んでプルーストで修士論文を書いたときに副査を担当してくださつたのも加藤先生だつた。主査、岩瀬孝先生、副査、弓削三男先生、加藤民男先生。拙き論文ではあつたけれど、岩瀬先生は「高遠にはâme littéraireがある」といふその後の私を支へ続けてゐるお言葉を下さり、加藤先生もとくに「引用」を扱つた第三章を「美しい」と褒めてくださつたのだ。このときの先生方のお言葉がなければ今の私はないだらう。学恩は海より深し。あの時代に早稲田の仏文科で学んだことを私はみづからの人生の大きな幸運の一つにかぞへたいと思ふ。 いま加藤民男先生の訃報に接し、先生の温顔と張りのあるお声をまざまざと思ひ出す。最後にお目にかかつたのは新庄先生を偲ぶ会だつただらうか。 これからの私のプルースト訳は、個人的にはいつもどこかで岩瀬先生や加藤先生への恩返しの色合ひをもつだらう。 加藤先生のご冥福をパリからはるかにお祈り申し上げたい。謹みて合掌するばかりである。
光文社古典新訳ブログに、出発前に収録した古屋美登里さんとの対談がアップされた。
http://www.youtube.com/user/kotensinyaku?feature=watch 古屋さんといふ最高の導き手を得て、不肖のわたくし、よちよち歩きで語りました。もしご関心があればご覧下さい。長めのと短めのがそれぞれ一本あります。
在外研究で、四月一日からパリに住んでゐる。
復活祭の日曜日の夕方、住まひから散歩のつもりで歩く。もつとも親しんだモンパルナス界隈まで。これがさうたいへんではないから驚く。十三区といふのは意外に便利なのだ。 Vavinまでゆくと、私が唯一心を許し、向かうも親友として遇してくれたフランス人の脚本家・演出家・俳優の故・ジャック・アルドゥワンと夜を徹して朝まで飲み明かした店がある。ジャックの脚本・演出・主演によるLe Petit Princeの上演が二十年近く毎晩のやうに上演されてゐた劇場が近くにあるせゐで、ジャックとはよくこのあたりで呑んだ。ただ、内装がまつたく変はつてゐて、寂しいことこのうへない。深夜二時頃、そこでジャックと呑んでゐると、ジャックの知り合ひの演劇記者が通りかかつて、窓越しに話をするといふ、すこぶる愉しい瞬間に恵まれたのだが、それはガラス張りにしたいまの店ではあり得ない。 さらに歩いてゐると、ああ、ここはジャックとウイスキーを飲んだ店だとか、ここは死んだ三川基好と呑んだ店だとか、そんな記憶が蘇る。三川はアメリカに在外研究で二年間行つてゐるときに、パリまで私を訪ねてきたことがある。空港に出迎へ、丸々二日つきあひ、空港まで送つていつたのだが、二日目の晩、Edgar Quinetの小さな広場のカフェで呑んだのだ。そのときには三川はまだ翻訳の仕事を始めてゐなかつた。それから数年であれだけの仕事をするとは思はなかつた。 復活祭の昨日、意外にも開いてゐる店がないことはなくて、夕食もそんな一軒で済ませて帰つてきた。夜はテレビで「カールぢいさん」をやつてゐたので見る。日本から送つた本はまだ届かない。 朝方、三川の夢を見る。三川の遺文集が出るといふ夢だつた。もう一つの夢は亡き父母の夢だつた。いまの私をつくつてゐる両親の遺した文章やデザインの夢。
むかし、ワインをフランスで実地に教へてくださつた方がゐて(それはいいワインを飲ませてくださつたし、また、ワインの飲み方もご教示くださつた)、その影響でフランスにゆくたびに銘醸ワインを買つて帰つたものだつた。なにしろ、超過分の税金がどんなに高いワインでも、一本百円だつたのだ。ところが生来の甲斐性なしで、「勿体ない」が先に出て、折角のワインを飲むことができない。一々ここに銘柄を書かないけれど、ワイン通の方から見てもおどろくくらゐのかなりの銘酒がそろつた、そのために、ワイン用冷蔵庫を二度買ひかへたくらゐである。
ときに、私は四月から長期間フランスへゆく。その間、家にあるワインは呑めない。そこで最近一本づつ空けてゐるのだが、けふはCheval Blancの1976年を呑んだ。もう駄目かと思つてゐたのだが、意外に状態がいい。三十六年といふ歳月がここに凝縮してゐる感覚を味はつた。されど、まだまだ私のワイン用冷蔵庫にはフランスで買つた銘醸ワインがある。これを出発までに呑むことはできないだらう。何のために買つたのか、みづからの判断の甘さを悔いる日々である。
昨夜はある共著の仕事の打ち合はせのあと、出版社の方にお誘ひ頂き、美味しい酒肴をつまみながら歓談した。ふだんは葡萄の酒を呑むことが多いのだが、昨夜は燗酒にして、杯をくみかはした。
お相手は中村邦生さんと芳川泰久さん。 中村さんは学窓こそ違ふが昔から敬愛する先輩であり、今までいくつもの仕事に誘つて頂いたことがある。小説家にして大東文化大学教授。 芳川さんは学部・大学院の同期で、早くから盛名を馳せてゐる。文藝批評家・早稲田大学教授。 中村さんは酒を口にされない。芳川さんも大病を経て、いまは美酒をすこしだけ呑む。 このお二人はまた人格高潔で、品性に下卑たところがまつたくない。 編集者の女性も知的で、しかも、品のいい酒をたしなまれる。 ひとり私だけがうはばみである。お三方はさぞかし辟易したのではないかと思ふ。 されど、私の体たらくを脇へ措けば、まことに愉しい時間だつた。かつて読んだ小説の話から文学者談義、旅談義まで。中村さんと芳川さんが次々に繰り出す話はそれはそれは愉しい。 そんなお二人との共著。昨日で骨格は定まつた。 お二人に感謝しつつ、けふはここで筆を止める。
昨夕はゼミの学生が壮行会を開いてくれた。卒業した一期生も全員。ここに書くのはいささか躊躇はれぬこともないのだが、内の一人が、卒業生同士の電話連絡の際に「送別会」を「告別式」と聞き間違へて、ないしは、「送別会」を「告別式」と解釈した結果、私が死んだと思つて、黒ネクタイ姿で、しかも「御霊前」と書かれた香奠まで持つてきたのである。
私が生きてゐるのを見て、彼は内心ぎよつとしたらしい。ただ、一日、会社で私のことを思ひだして、心中涙に暮れてゐたといふので、笑つて許すことにした。それにしても、高遠ゼミ一期生何のなにがしと添へ書きした香奠までもつてくるあたりがいかにも粗忽な私のゼミ生にふさはしいといへばいへるだらうか。 プルースト個人全訳を完結しないうちに先生がなくなつたと思ふととても悲しくて、とその卒業生はいつたが、死んだはずの私がかつぽれこそ踊らないものの、上機嫌で呑んでゐるのをみてさぞかし驚いたことだらう。まるで落語みたいな話である。
井上究一郎先生のご息女で、成城大学名誉教授の金沢公子先生が、拙文にコメントをお寄せくださいました。
まづは先生に心からの感謝を捧げます。 かうしたえにしといふものは、この生にあつてしばしば精妙に絡み合ふもので、それを実感したのは、まさにけふでした。先生がコメントをくださつたことに気がついたのはつい今し方でしたけれど(迂闊をお許しください)、実は昼間、本を整理してゐて、河出書房新社カラー版世界文学全集井上究一郎訳「花咲く乙女たちのかげに」を開いたところ、中にはさまれた附録に、美しいイリエ・コンブレー紀行を書いていらしたのが金沢先生だつたことに、今更のやうに気がついたのです。先生はその当時、津田塾大学の講師をしておいででした。私は1972年の春にこの本を買ひ、一気にプルーストにのめり込んだのでした。それがいま、金沢先生のお便りを頂いたり、メールを頂戴したりといふ幸ひに恵まれてゐます。このやうな出会ひがあるからこそ、また明日を向いて生きられるのだとつくづく思ひました。 金沢公子先生に感謝を申し上げます。
昨年私は井上究一郎訳プルーストの原稿の一部を手に入れ、そのことを大阪産経新聞の連載「プルーストと暮らす日々」(まだ続いてゐて、今週で第四十回になる)に書いた。それがきつかけで、最近、井上先生のご息女の忝い知遇を得た。成城大学教授でもあられたご息女は、まつたく不本意にも散逸した御尊父の訳稿を、いましきりに買ひ戻されてゐる。あたかも八犬伝の玉のやうに、どこにあるかがしだいにわかり始めてゐると仰言る。時空を超えて、井上究一郎訳の『失はれた時を求めて』一万五千枚の原稿が光を放ちながらやがて一ヶ所に吸ひ寄せられる光景を幻のうちに見て、私はいま胸にあついものがこみ上げるのを感じてゐる。人の世の出会ひの何といふ不思議さ。プルーストが取り持つ縁(えにし)と云ふほかない。
六日金曜日の朝日新聞、関西版に住大夫師の記事が載つた。産経の記者の方が自宅にファックスで送つてくださつたし、ホテルでもその新聞はもらつてゐたので、資料としては手許にあるのだけれど、かういふ記事は全国版で流してほしいと思ふ。今回の大阪、住大夫師の桜丸切腹は絶品だつた。これぞ藝。
渡邊一考さんが「ですぺら掲示板」の「植物のざわめき」といふ記事で、拙訳プルーストについて書いてくださつた。http://www.despera.com/bbs2/ 過褒のお言葉に恥ぢ入るばかりである。せめては少しなりとご期待に添ふべく、精進を続けたいと切に思ふ。一考さん、本当にありがたう。御身くれぐれも大切に。
十二月八日、プルースト『失はれた時を求めて』第二巻が発売になつた。お楽しみ頂ければ幸ひである。
佐々木幹郎さんの新刊詩集『明日』は、二十一篇の詩を収める。内、四篇が震災後に書かれた作品である。「この椅子に座って」「鎮魂歌」「明日」「風のなかの挨拶」といふ題を附けられた四篇は、震災後に日本語が持ち得た貴重な果実としてこののちの人々にも読み継がれてゆくだらう。
「風のなかの挨拶」をすべて引いてみる。 ねむる月 なお ねむる月 おさない葉の 枝の風を抜けて 夢乱れて 泣くなら 泣け 千のピアノ 千のヴァイオリン 生まれたての やわらかな黄緑の葉をさわり 愛が人間のなかに入り込むときの なんという奇妙な瞬間 猫 尾を立てて歩き 挨拶する あなたに こぼれちる風の向こうの あなた 生きる水 あふれる 音ひくく うた遠く 知らないうちに 笛と太鼓が鳴り 笑い声が 扉を開けて 次々と扉をあけて 鉦は鳴る 欲しいものすべて 四月の大きさ 五月の深さ 六月の強さ 芽吹くときの やさしさ すべて なんといふ言葉の使ひかたであらう。三行目の「おさない葉の」で心打たれぬ者は詩を読む力がないといつていいと思ふが、とくに、そのつぎの「枝の風を抜けて」と「泣くなら 泣け」と続いたあとの「千のピアノ 千のヴァイオリン」。これはみごとといふしかない。まさに詩の言葉として目の前に立つ。 私たちの言葉はかつてかうした響きをもたなかつた。一行一行の言葉の音と姿と意味内容とが十全に外にむかつて光と一体になつて発せられ、しかも、それ以外にはない個体としての言葉の重なりとなつて読む者に迫つてくる。これが詩なのだ。かういふ言葉の連なりが詩である。 佐々木さんは今回の詩集で、震災後に詩を書くことの意味を追究したはてに、かうした表現に行き着いた。私はいま、心から思ふ。詩がこれだけ混迷をむかへ、詩ならざるものを詩と称するものがあまたあふれる世にあつて、佐々木幹郎さんといふ詩人がゐるといふことがどれだけ、言葉に携はつてゐる者(たとへば私)を根柢から励ますかといふことを。これは私がたまたま佐々木さんを個人的に存じ上げてゐるがゆゑの言葉ではない。といふより、かう云へばいいか。私は佐々木幹郎といふ詩人とたまたま同時代に生き、佐々木さんの紡ぐ言葉で励まされ、言葉に対する信頼を取り戻したのだ、と。私のプルースト第二巻ができあがつたのも、佐々木さんに明治の大学院で特別講義をして頂いたことが大きな励みとなつてゐる。こたびの震災でまつたく無力感を味はふことがなかつた文筆家といふのは存在そのものが信じがたい。みな、その絶望感から立ち上がつてきたはずなのだ。 今回私は震災後の詩について書いたけれど、震災前の詩もすばらしい。個人的な好みで云はせてもらへば、「珊瑚の岩の神の」「エビアンの叔父」「岩と死者」「不滅あるいは囲むということ」「飛沫論」「春から夏へのハープ」は真正なる傑作である。かういふ詩をもてたといふことは私たちの幸ひである。
佐々木幹郎さんの新刊詩集『明日』をご恵贈頂いた。これは近年の最高の収穫といつていい。これは私が佐々木さんを存じ上げてゐるといふこととは関係ない。来週、もう少し詳しく書く。思潮社刊、間村俊一装訂。二千八百円。これは震災後に書かれた言葉のなかでも特筆すべき仕事である。
けふは明治大学大学院教養デザイン研究科博士後期課程の学生のための特別講義の三回目がある。講師は古屋美登里さん。お忙しいのに引き受けてくださつた。安藤礼二さん、久間十義さんに続いて三人目の書評講座。
教養デザイン研究科はまだ発足して四年しか経つてゐないが、特別講義の講師として私がコーディネートしただけでも、東雅夫さん、久間さん(今回で二回目)、佐々木幹郎さん、安藤礼二さん、古屋美登里さんといふお歴々においで頂いた。商学部では佐藤亜紀さんの特別講義を四年続けることもできた。 これも講師をお引き受けくださつた方々と、私の周囲の先生方のご理解とご支援あつての賜である。あへてこの場に記して感謝を申し上げたい。古屋美登里さんには商学部で来年もお世話になる。ありがたいことである。
さまざまな都合で随分遅くなつてしまつたけれど、 光文社古典新訳文庫刊、拙訳プルースト『失はれた時を求めて』第二巻の発売日が決まつた。十二月八日に店頭に並ぶ(見本は十一月中に出る)。引き続き、続く巻の翻訳に励むつもりである。精緻きはまるプルーストの言葉を堪能して頂ければ幸ひである。
かつての私はひたすらに花鳥風月を称へ、「紅旗征戎非吾事」と呟いて、醜い政治のことなど無視してゐた。ツイッターでもブログでもなるべくならその道から外れたくないとは思ふ。されど、原発事故以来、政治の批判を避けてゐては、後世に対する責任を抛棄してゐるのではないかと思ふやうになつた。
一介の大学教師、あるいはプルーストの訳者に過ぎない私が何かを云つたとしてもそれは蟷螂の斧にもならないことはよくわかつてゐる。しかしこのところの政治の動き、メディアの動きには異常なものを感じないではゐられない。 学生たちに限らず、若い友人を見てゐて思ふ。失業率が下がらず、まじめに努力してゐても就職できない、米国の圧力に負けて必要も無いのに「英語偏重」を声高に叫ぶ社会の渦に巻き込まれ、私のやうにフランス語で生計を立ててゐるロートルとは違つて英語に叛旗を翻すこともできない、といふのでは、結局私たちが彼らを大切にしてゐないのと同義だらう。原発の負の遺産、米国支配を唯々諾々と受け入れる「有識者」といふ亡国の徒の群れ、権力批判を忘れたマスコミ。彼ら、既得権益だけを守る守旧勢力に共通してゐるのは、これからの時代を生きて行かなくてはならないのは若者たちであり子供たちであるといふ、基本的で人間的な認識の欠如ではないかといふ気がしてならない。天変地異は宮沢賢治の生きてゐた時代にも岩手地震、大津波といふかたちであつた。しかし、今回の震災は、原発があることでさらにひどいものとなつてゐる。今の世に生きる人間たちがみなゐなくなつてからも放射能は害を及ぼし続ける。 電力会社とその利権に群がる者たちを指弾し続けることが必要だと思ふし、怒りを忘れてはならないとも思ふ。「決シテイカラズ」は、それを書いた賢治がどれほどすばらしい天才であつたとしても、いま私たちが帰るべき言葉ではない。それを私は銘記したい。怒りをもつて現下の政治を見つめなくてはいけないと思ふのである。このところ本を読みあさつてTPPの勉強をしてゐるのだけれど、すればするほど、これは絶対に交渉参加するものではないといふ確信が強まつてゆく。私として正直なところを云へば、早く花鳥風月の世界に戻りたいのではあるのだが。
先日、大学の同級会で、今まで犬を飼つたことしかないが、このたび、長年連れ添つた犬が死んだので、次は生涯ではじめて猫を飼はうかどうしようか迷つてゐるといふ話を聞いた。
猫派の私ではあるけれど、子供の頃、一時犬と猫をともに飼つてゐたことがある。長じてのち、犬か猫を飼ふことになつたとき、迷はず猫を飼ひ、そのまま三匹目のシャルトリュー種を飼つてゐるのだが、ときどき犬を飼ひたくなることがないではない。 ここ二日ほど続けて、飼ひ主が引つ張るリードに必死に抵抗してゐる犬を見かけた。足を前に突つ張つて、いつかな動かうとはしない。といつて、飼ひ主をにらみつけるでもなく、ただ引かれるままに動くのを拒否してゐるやうに見える。その場を通り過ぎても、何だか妙な連帯感を感じて何度も振り返つた。犬のどこに引かれるかが何となくわかつた気がした。人間になつくといふところよりも、さういふ点で頑固一徹なところをときに表に出すところがいい。むろん、犬派の方はそれをいいとは云はないだらうけれど。
けふは1970年入学の、早稲田大学第一文学部O(オー)クラスの同級会にゆく。五十五人中、五人が鬼籍に入り、残りの五十人の内、二十八人が集まつた。一度か二度、何人かで集まつたことはあつたけれど、これだけの人数は初めてである。幹事の人たちの苦労が偲ばれる。
そろそろ定年を迎へた人もゐれば、自営業の人もゐる。話をしてゐるうちに、昔の思ひ出が蘇る。二次会にも顔を出す。 みなかつて文学を志した者たちばかりである。さすがに青臭い文学談義はなかつたけれど、志の高さを感じる発言もいくつかあつて、かういふ集まりもいいものだと思つた。出席した人たちばかりでなく、けふ来られなかつた同級生たちの健康をここにても祈りたい。
光文社のサイト内「古典新訳文庫・続刊案内」にやうやく出た。http://www.kotensinyaku.jp/nextnumber/index.html
もう少しで刊行する。いましばしお待ち頂ければ幸ひである。
大学院教養デザイン研究科博士後期課程のある授業にお招きする三人の外部講師の方々のトップを切つて、明後日の火曜日、安藤礼二さんのご講義が和泉校舎で行はれる。三人の先生方には薄謝で申し訳ないが、院生たちは今から愉しみにしてゐる。久間十義さん、古屋美登里さんがあとに続いて下さる。コーディネーターとしてこのやうな方々にご快諾頂いたことを大いに喜んでゐる。
せつかく貴重なお書き込みを頂きましたのに、このところログインをしておりませず、御礼が遅くなり、まことに申し訳ございませんでした。お言葉、たいへん嬉しく拝読いたしましたが、同時に身の引き締まる思ひでございます。
現首相については、脱原発のやうなことを言つた舌の根も乾かぬうちに、再稼働や輸出を公然と云ひ出すのですから、まつたく信用がなりません。よほど気をつけて注視して行きませんと、とてつもなく危険なことが待つてゐるやうな気がいたします。心配性のわたくしの杞憂でなければよろしいのですが。
けふは父の命日である。四十九年目になる。
私は父がかなりの年配になつてから生まれたといふこともあつて、壮年までの父についてはまつたくといつてよいほど知らない。父が十九世紀の生まれであり、芥川と七歳しか違はず、石川淳より二歳年上だつたといふことはずつとあとになつて知つたことで、小五のときに他界するまでの父は大酒飲みで、頑固一徹、それなのに遅く生まれた私には滅法甘いと思ふと、この子は大きくなつたら自衛隊に入れるなどと言つてゐた記憶くらいしかない。いや、掘り起こせばそれ以外にも思ひ出す記憶の断片はある。鑑札があつたので、毎晩のやうに千曲川に投網漁をしに出かけ、朝私が起きると、氷を入れて冷やす冷蔵庫の中が川魚でいつぱいになつてゐたとか、上田の庭球倶楽部の創始メンバーの一人で、皇室の誰それが視察に来たとき、畏まつた様子で写真に収まつてゐたとか、ここからあとは伝聞だけれど、戦前は信州上田で初めてメロン農園を始めて見事に失敗したとか、昭和十年代は東京の奥沢あたりに住み、麻布に店を構へて羽振りがよかつたとか、貴金属供出となると、もてるもののほとんどを供出して、貧乏になつて故郷の上田に帰つてきたとか、借金の保証人になつて、騙されてひどい目にあつたとかその他もろもろ。私の覚えてゐるかぎり、父は世故に長けて、といふ逆で、人情家でお人好し、そのくせ怒りつぽく、短気でせつかち。とても生きるのが上手とは云へなかつたやうに思ふ。本はまつたく読まなかつたが、古いレコードには邦楽がかなりあつたのをかすかに覚えてゐるから、あるいは私がいま住大夫師の浄瑠璃にのめり込んでゐるのも、父の遠い記憶を辿つてゐるといふことなのかもしれない。それとも邦楽のレコードも母のものだつたのか。父が死んだ朝の記憶ははつきりと残つてゐる。それは今後も忘れることはないだらう。私は父が好きではなかつたが、この年になると、母はもちろんのこと、父からも多くを引いてゐるやうに思へるやうになつた。父母ありての私。それをつよく感じる昨今である。
これは私見である。誰かの言葉を引用するときは、皆がその言葉を知つてゐる場合を除けば、出典を書く(云ふ)のが親切だらうと思ふ。
とくに、耳で聞くだけのときに、他の熟語と混同するやうな場合は、出典を云ひ添へるのが引用の作法といふものだらう。「せいしんせいい」と耳で聞いて「誠心誠意」以外の字を思ひ浮かべる人の数はごく限られてゐる。もしどうしても通用の字と違ふ言葉を云ひたかつたとすれば、たとへば、「勝海舟のいはゆる正心誠意」としないと、正確に云ひたいことはそれを聞いてゐる者には伝はらないのではないか。つまりは内向きの演説といふことであつて、最初から全文を入手してゐる議員や政治記者以外の私たち(耳で聞いてゐるだけの者たち)に正確に届く言葉ではないといふことだ。そこから現首相の発想がほの見えてくる気がするが、それについてはここに書く気力もない。
前項「正心誠意」は勝海舟から首相が引用したといふことがわかりました。我が身の無知を反省するばかりです。
ただ調べてみますと、日本国語大辞典では、十七世紀の用例や西周などの用例で、「誠意正心」はありますが、「正心誠意」は載つてゐません。もともとの出典となつた「大学」での順序からしても「誠意正心」のはうが一般的だつたのかもしれません。首相は勝海舟の、あへて云へば特殊な用語を使ひたかつたのでせうが、いささか奇を衒ふところを感じます。
正心誠意。どうしたらかういふ表記に我慢できるのか。日放協の二十一時のニュースで、字幕に再三出た文字がこれである。テレビ朝日の字幕は昔から誤字が多い。それが日放協まで。ほかのことは知らず、これだけで受信料を払ふのが莫迦莫迦しくなる。どうしてここまで日本語に対して鈍感でゐられるのか。昔、マスコミは就職試験で「○肉○食」を「焼肉定食」と入れた学生をそれこそ莫迦あつかひした。されど、メディアに棲息する者たちに、その学生を嗤ふ資格はない。
みづからがよつて立つ言語を大事に扱ふことなくして、どうして英語重視などするのか。まつたく理解に苦しむ。同様に、日本の大学で学ぶのに英語だけで四年間過ごせるといふ制度をつくらうといふ昨今の大学人にも私は深い憤りを覚えてゐる。日本の大学で学ぶ以上、日本語を学ばせるべきである。いつたいいつからこの国はどこやらの属国になり、植民地になつたのか。
ご子息の福田逸先生(明治大学の同僚であられる。二年間、学部執行部でご一緒した。器の大きな方である)からけふご恵贈頂いた『福田恆存対談・座談集 第二巻』(玉川大学出版部)を読み始める。吉田秀和、鈴木大拙、加藤周一、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村光夫、三島由紀夫、小林秀雄、大岡昇平その他、じつに刺激的かつ楽しい対談・座談が続く。鈴木大拙がプルーストの一歳年上であることが何だか不思議である。
42年前の1969年のけふ、夕方帰宅した私の目に飛び込んできたのは意識を失つて倒れてゐる母の姿だつた。すぐにかかりつけの医師に連絡。救急車で病院に搬送された。私は東京の兄たちを待ちながら、夕方から夜半までずつと母の枕もとでひとり祈るやうな思ひでゐた。当時のこととて東京からは五時間はかかる。兄たちが到着したのは夜も更けてからだつた。その数時間後、日附が変はつた十六日の早朝、母は一度も意識を回復しないまま死んだ。外に出ると、よく晴れた夏の朝がいつものやうに始まらうとしてゐた。いつもと同じでなかつたのは、私たちの周りだけだつた。今でもあのときの病室を思ひ出す。母が病室で横になつてゐるのを見たのはそのときが最初で最後である。死因は脳溢血だつた。
今日7月10日はプルーストの誕生日である。
今から百四十年前、1871年の今日(月曜日)、プルーストは当時はパリ郊外だつたオートゥイユのラ・フォンテーヌ街96番地にあつた母親の叔父の家で生まれた。前年に始まつた普仏戦争は、パリ砲撃、パリ陥落を経て、1871年5月のフランクフルト条約(アルザス・ロレーヌ地方割譲、五十億フランの賠償支払ひ)に至る結果をもたらすが、出産を控へた母親がパリを離れて、叔父方に身を寄せたのは、パリの混乱に巻き込まれるのを避けんがためだつた。 ところで、日本では明治5年12月2日(西暦1872年12月31日)まで旧暦がもちゐられてゐたから、日にちがずれるために、上記誕生日は日本の旧暦で云へば、明治4年5月23日に相当する。 新暦と旧暦を勘案して、西暦でプルーストと同年生まれの日本の文学者は、以下の通りである。 高山樗牛、島村抱月、国木田独歩、幸徳秋水、土井晩翠、田山花袋。 一つ上に鈴木大拙、一つ下に島崎藤村、樋口一葉らがゐる。 私が生まれた1952年はプルースト生誕後81年目だから、をかしなことを云ふやうだが、もし、1922年に51歳で他界せずに長らへてゐれば、生きてゐても不思議ではなかつた。前年傘寿をむかへた老人が生まれたての赤子を見るやうなものだらうか。 さて、そんなけふ、私は若い頃にプルーストに出会ふことのできた幸せを改めて思ふ。プルーストに導かれて歩んできた者の一人として、けふの日を心からことほぎたい。
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